暴力をみて、暴力について考える

以下は、『私はヴァレンティナ』を観て、自分自身の暴力について考えたことだ。
手元にパンフレットもなく、映画を観たのも一度だけなので、細かい部分での記憶違いがあるかもしれない。
また、内容に踏み込んでいるため、ストーリーを知らない状態で映画を観たい場合や、暴力に関する記述を読むのがしんどい場合は、閲覧をおすすめしない。

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 『私はヴァレンティナ』は、暴力の映画だった。
 90分という映画としては短い時間のなかに、最初から最後まで暴力が描かれていた。

1 暴力を見ること
 主人公のヴァレンティナは、ブラジルの都市部で暮らす高校生。父親が突然姿を消し、母親が新たな仕事を地方の小さな街で見つけたことに伴い、母親とともに引っ越すことになった。
 映画は、引っ越しを前にしたヴァレンティナが友人2人とクラブを楽しもうとする場面から始まる。友人2人はそれぞれ身分証明書を提示して先に入店したが、ヴァレンティナは身分証明書の偽造を店員に見抜かれて入店を断られる。
 確かにヴァレンティナは証明書を偽造していた。なぜなら、トランス女性のヴァレンティナには、カミングアウトを伴わずに提示できる身分証明書がなかったからだ。出生届に記載されている名前の、男性として生活している頃の写真が貼付されている身分証明書なら持っていたが、それを出したところでヴァレンティナが証明書と同一人物であるとは信じてもらえない。実際、その身分証明書を提示すると、店員は「今度は弟の身分証明書か?」と言う。
 何とか入店し踊っていると、男が突然ヴァレンティナにキスをする。その後、男はどこからかヴァレンティナがトランス女性であることを聞きつけ、大勢の人で賑わうクラブで「男なんだってな?」「せめてキスする前に言え」と吐き捨てるように言う。一切ヴァレンティナの同意を得ようとせず、勝手にキスをしたのは男だ。しかも、(おそらく)入口にいた店員がアウティングし、男が大声で言ったことで、ヴァレンティナがトランス女性であることは、一瞬にして広まってしまった。このような厳しい状況でも、ヴァレンティナは「勝手にキスしたのはそっち」とはっきりと男に言い返す。すると今度は、男はヴァレンティナを黙らせようと手を出す。周囲は騒然とし、大勢にアウティングされ、暴力を振るわれたヴァレンティナは、友人との最後の時間を楽しむどころではなくなってしまう。
 誰もが使用できるはずの身分証明書が使えないこと、そのせいでカミングアウトせざるを得なかったこと、一瞬にしてアウティングされてしまったこと、合意なしの一方的なキスという性暴力、そして身勝手な男の態度の豹変から滲み出るトランス女性への嫌悪。映画が始まって10分と経たないうちに、私が覚えているだけでも、これだけ多くの暴力に、ヴァレンティナはさらされていた。ヴァレンティナがクラブに入るシーンを観ながら、クラブなんて行ったら絶対に危ない、やめておいたほうがいいと私は思った。だが、なぜヴァレンティナはクラブを楽しむことができないのだろう?ヴァレンティナは友人との最後の時間を楽しみたいだけなのに、映画を観ている私は、どうして危険を回避するためにヴァレンティナが我慢した方がよいと考えてしまっているのだろう?ヴァレンティナは友だちと同じことをしようとしているだけなのに。
 一般に、トランス女性は暴力にさらされやすい。なぜなら、この世界には出生時に割り振られた性別が男性である人が「男らしく」ないことによる差別も、女性差別も、トランス差別もたくさんあり、トランス女性は複合的な暴力を被ることが多いからだ。トランス嫌悪による殺人も起きている。このことは、残念ながら事実だ。だから、危ないところに行かないほうがいいというのは、当座の対応としては妥当といえるのかもしれない。しかし、それとはまた別の水準で、暴力を減らしていくことを考える必要がある。それをせずにただ、危険な場所に行かないほうがいいと言うことは、クラブでヴァレンティナが多くの暴力にさらされたのは、一定程度自己責任だと言っているのと同義ではないか?必要なことは危険な場所を減らすことであって、ヴァレンティナが我慢をする必要など何もないはずだ。にもかかわらず、トランス女性が危険な場所を回避することを、まるでそれが暴力を避ける唯一の手段であるかのように考えている自分自身に気付き、そのことに愕然とした。

2 暴力の連続
 小さな街に引っ越したヴァレンティナは、母親と現地の高校へ行き、転校の手続きを進める。新学期までは少し時間があったが、前の高校を途中で退学していたヴァレンティナは、新学期までの長期休暇中に行われている補習に参加することを勧められる。ヴァレンティナは出欠確認の際に出生届に記載されている名前で呼ばれてしまうのではないかと不安を抱きつつ、補習に参加することを決める。
 ヴァレンティナは補習で出会った生徒たちと急速に距離を縮める。場当たり的なセックスをすることはあるものの、求めている親密な関係を築いたことのないジュリオ、妊娠中で、化学も数学も苦手だがハッキングが特技のアマンダの2人と特に仲良くなる。だが、前の学校での経験(作中では、経済的な問題や成績の問題ではなく、トランス女性であることが退学の原因であったことが示唆されている)や前述のクラブでの出来事を踏まえ、ヴァレンティナはどんなに親しくなってもトランス女性であることは言わないようにしていた。
 そんな時、補習も無事終わり、仲良くなった3人で仮装パーティーに行かないかという話になる。前述のクラブでの経験もあり、クラブで開催される仮装パーティーへの参加にヴァレンティナは躊躇したが、仲良くなった友だちと一緒に楽しみたい気持ちもあり、友人が身分証明書を提示したら自分は身分証明書を出さなくても入店できることもあり、結局参加した。今度は、以前のように暴力にさらされることもなく、友人たちとパーティーを楽しんでいた。そうして楽しみながらも、ヴァレンティナは、クラブが安全な場所ではないことは分かっており、友人に勧められるままにお酒を飲みすぎていることも自覚していたため、友人と常に一緒に行動するようにしていた。しかし、途中で友人とはぐれてしまい、飲酒の影響もあり、クラブのバルコニーのような人気のない場所で眠ってしまう。すると、仮面をつけて、マントを被った男がヴァレンティナに近寄ってきて、眠っているヴァレンティナの身体を勝手に触り始める。服の中に手を入れ、プライベートゾーンを無遠慮に撫でまわす。その不審な動きにヴァレンティナは目を覚まし、男を振り払い逃げるように家に帰る。
 この日を境に、ヴァレンティナの顔に男性の身体をコラージュした画像が高校のメーリングリストで出回るようになる。ヴァレンティナは、友人たちの手を借りて、残されたマントを手掛かりに仮面の男の正体を突き止める。男の正体は、補習にも参加していた高校の同級生だった。精肉店で働くその男は、兄とふたり、小さな街で好青年として知られていた。ヴァレンティナは男に直接、「誰がやったかは分かっている」と伝えたが、嫌がらせが止まるどころか、男と男の兄に目をつけられ、さらなる暴力のターゲットにされてしまう。
 そもそも、ヴァレンティナが女性のように見えなかったら、男は眠っている人の身体を勝手に撫で回しただろうか?おそらく、ヴァレンティナが女性のように見えたから、眠っている女性に好き勝手できると思い、プライベートゾーンまで勝手に触ったのだろう。ここからは明らかに女性への性暴力が読み取れる。ヴァレンティナの場合、その性暴力によってトランス女性であることを知られてしまい、トランス女性であることを示唆し嘲笑する内容のコラージュ画像を拡散されてしまう。つまり、ヴァレンティナは女性への性暴力をきっかけに、トランス女性嫌悪による暴力にさらされているのである。これは冒頭のクラブでも同様である。
 加害者の男に犯人は分かっていると伝えた数日後、男と男の兄は、友だちの家から帰宅する途中のヴァレンティナを車で連れ去り、性的暴行を加える。さらに、男の兄は、高校生の保護者を対象に、ヴァレンティナ入学に反対する署名を集め始める。小さな街で、従来から高い信用を得ている男の、高校生の「健全」な教育環境を守ろう、というトランス女性差別の声だけが大きく響き渡り、実際に二桁台の「賛成」の署名が集まり、彼らの差別的な主張が一定の支持を得ていることが示される。ヴァレンティナは被害を警察にも相談したものの、彼ら兄弟は逮捕されることもなく、彼らが暴力を振るった事実が街の人に広まることもない。性的暴行に傷つき、コラージュ画像や反対署名によって今や街中の人にアウティングされてしまったヴァレンティナが、大家から家を追い出され、教育を受けられない可能性に怯えて生活しなければいけないにもかかわらず、暴力を振るい続けている彼らは、今まで通りの生活を送っていた。
 仮装パーティーでの暴力をきっかけに、トランス嫌悪によるアウティング、署名活動、性的暴行と、再び暴力の連続が描かれている。友だちと仮装パーティーを楽しみ、高校で授業を受ける。ただそれだけのことが、トランス女性であるがゆえに困難になっている状況が描かれている。これは、相次ぐ暴力によって、すでに隣にいるひとりの人の生や生活が脅かされている様子を描いた映画である。「健全」な教育環境の維持という名目でヴァレンティナの入学に反対する署名活動が行われたが、ヴァレンティナは補習の時から、その高校にいた。仮装パーティーでヴァレンティナに性暴力を振るった男と、同じ教室に、すでにいた。それで、何か問題でもあったのだろうか?「健全」な教育環境が損なわれるほどの何かが、ヴァレンティナが高校に通うという他の人と同じことをしただけで、起こったのだろうか。ヴァレンティナはただ、出生届に記載されている名前で点呼されないか怯えているだけだった。それなのに、ヴァレンティナがトランス女性であることを、非常に暴力的に「発見」した途端、ヴァレンティナが高校に通うことは大きな問題となってしまう。署名運動はトランスフォビアであり、さまざまな暴力を振るい続けている男たちが、それらすべてを隠蔽するための手段であることは明らかである。

3 「ヴァレンティナ」として生きる
 ヴァレンティナが安全に提示できる身分証明書を持っていないのには理由がある。ブラジルでは、日本と異なり、性別の変更に医学の介入は不要である。手続きさえすれば、公的書類の性別を望む性に変更することができるし、名前を変更することも可能である(畑 2018; 齋藤 2019)。ここで問題となるのは、ヴァレンティナが未成年であるということである。未成年の場合、公的書類の性別や名前の変更の手続きをするには、法的な保護者のサインが必要だ。ヴァレンティナのケースでは、父親が母親と離婚する前に姿を消してしまったため、法的な保護者、つまり両親のサインが必要だった。公的書類の名前を変更していない状態で、ヴァレンティナとして高校に通うにも、両親のサインがある書類を提出する必要があった。そのため、ヴァレンティナは新学期から通称名で高校に通うために、サインをもらうべく、父親を捜し始める。
 ハッキングが得意なアマンダの助けにより父親の電話番号が分かり、連絡はついたものの、来ると約束した日に父親はやってこなかった。結果的に、ヴァレンティナが例の兄弟に車で連れ去られて性的暴行を受けた後に父親はようやく姿を現した。書類にサインをする人物が揃ったが、ヴァレンティナがトランス女性であることはすでにアウティングされ、入学反対署名も行われていた。その影響で最初に住んだ家を追い出され、母親の恋人の家に身を寄せている状態だった。このまま母親とここに残って高校に通うのか、別の街に住む父親と父親の新たな恋人と暮らすのか。ヴァレンティナは迷ったが、最終的には父親にサインをもらい、性別変更の手続きをし、高校にも「ヴァレンティナ」として通えるようにして、街に残って母親と生活することを選択した(というか、父親が恋人の両親がトランス差別的な人たちであることを仄めかしたため、事実上選択肢などなかった)。
 ヴァレンティナの性別変更手続きは、すぐに終わった。公的書類の性別変更に医学の介入を絶対としている日本で生活している私から見ると、気が抜けるほど一瞬だった。そこまでに描かれた数々の暴力からは想像がつかないほど、性別変更に関する制度が整えられていると感じた。映画を観た後に調べたところによると、同性間の性行為を禁止する法律の廃止や同性婚や性別変更などの法整備の過程は、国によって様々である。同性婚や性別変更に関する法律は、多くの国においては、人びとの性的マイノリティへの嫌悪の減少を受けて法が整備された。それに対し、ブラジルを含むラテンアメリカの一部の国では、一般市民の性的マイノリティへの認識が変化する前に、法律が施行されたことが指摘されている(Corrales 2019)。また、性的マイノリティに対する嫌悪は以前から存在していたものの、近年のブラジルにおける激しいバックラッシュには、差別発言を繰り返す大統領と一部の保守的な宗教が政治的スポンサーになっているという新たな特徴があることも指摘されている(Corrales 2019)。
 制度の違いは、改めて十代のヴァレンティナがブラジルの小さな街で生活しているということについて、考えるきっかけになった。私は、私のなかにある「トランス」イメージでヴァレンティナを捉えようとしていなかったか。その場所で、未成年で、トランス女性として生活することを想像する時、私は何も知らないにもかかわらず、自分のなかにある曖昧なイメージだけで、その生を解釈してしまおうとしていなかったか?
 ブラジルでは、毎年100人を超える人たちがトランスジェンダーであることを理由に殺害されているという*1トランスジェンダーの平均寿命は30歳から35歳とも言われている*2。この映画はこうした現実を受けて、自らも性的マイノリティの監督とプロデューサーが数年をかけて資金を集め、ヴァレンティナ役にはトランス女性の俳優をキャスティングして制作された映画であり*3、フィクションではあるが、非常に現実との距離が近い。ブラジルの状況をほとんど知りもせずに、ヴァレンティナを「分かった」気になるのは、それこそ現に生きている人たちに対する暴力だ。背景を何も知らず、ただ映画だけを見て、「こんなに次から次に暴力にさらされて、ブラジルのトランスの人たちはかわいそうだ」と思う瞬間が何度かあった。映画のなかでヴァレンティナが多くの暴力にさらされていたことは事実だが、相手の生活や文化を何も知らずに、かわいそうだと決めつけるのは、「男に抑圧されたかわいそうな第三世界の女性たちを助けてあげなくちゃ」と思う「フェミニスト」たちと同じではないか?
 映画の終盤で、ヴァレンティナはさらなる暴力にさらされる。ヴァレンティナが新学期の初日に登校すると、例の男の兄が、ナイフを持って学校に乗り込んできたのである。教員や同級生たちがヴァレンティナを守るように盾になるなか、ヴァレンティナは前に進み出て男と対峙する。そこで、警察が到着したことにより、傷害事件はかろうじて回避される。だが、この男の弟であり、仮装パーティーでヴァレンティナに性暴力を振るい、その後も兄と結託して様々な暴力を振るい続けている人物は、何食わぬ顔で同じ教室に同級生として座っている。ナイフを振り回す男はいなくなったし、ヴァレンティナはヴァレンティナとして高校に通うことができるようになったが、依然としてこの街は、学校のなかですら、ヴァレンティナにとっては安全な場所ではない。
 映画は、「ヴァレンティナ」と教員に点呼され、ヴァレンティナが笑みを浮かべて返事をする場面で終わる。ヴァレンティナを応援する人が少なからずいて、ヴァレンティナはヴァレンティナとして高校に通うことに成功した。そのことは、希望なのかもしれない。それでも、なぜ笑えるのだろうと思ってしまうくらい暴力の連続だったし、これからも暴力にさらされ続けるようにしか見えなかった(ここには書ききれなかった暴力もたくさんある)。

4 見ることと距離
 ヴァレンティナには理解のある母親がいて、十代からホルモン剤を飲むことができて、女性として「パス」している。父親のことで危うい状況にもなったが、公的書類の性別変更もできた。学校の教員たちは法律に基づいてヴァレンティナを守ろうとしており、ヴァレンティナ自身も成績優秀で、高校卒業後の進路を検討できる環境にある。そのヴァレンティナでさえ、これだけの暴力にさらされてしまうなら、この映画で描かれたよりも悲惨な暴力に、現にさらされ、サポートを得られていないトランスの人たちがいることは、想像に難くない。遠く離れた場所でのその人たちの生を、悲惨な事件や、追悼や、死者数となって、私ははじめて知るかもしれない。けれど、最初から事件や追悼される名前や死者数のうちの1だったわけではなく、多くの暴力にさらされている生が現にあることを覚えておきたい。インスタントで分かりやすい「理解」をしてしまいがちな私は、その死や生を自分のなかにある曖昧なイメージでジャッジせず、政治や文化、生活などの生と不可分な背景を知ろうとすることを続けていくしかないのだと思う。
 映画を観た後、私はヴァレンティナを「女性にアイデンティファイしている人」と言ったが、そんなことは分からない。確かにヴァレンティナは女性として生活していたし、またそう扱われることを望んでいたが、それはヴァレンティナが女性にアイデンティファイしていることを示していない。ヴァレンティナが自分のジェンダーをどのように認識しているか語るシーンなどない。トランスに対する暴力のリスクを避けるため、自分のなかで折り合いのつく範囲で、世間に「パス」しやすい状態を選んでいる可能性もある。よく知りもしないのに、他人のジェンダーを決めてはいけない。フィクションを相手に何を大袈裟な、と言われるかもしれないが、これほど現実と距離の近い映画の登場人物に対してやることは、目の前の人にもやってしまっているだろう、と私は思う。『私はヴァレンティナ』は暴力の映画であり、その暴力を見ている私自身が日常的に振るっている暴力を浮かび上がらせる映画だった。

参考
・映画『私はヴァレンティナ』公式サイト https://www.hark3.com/valentina/#modal
・近藤亮平 2019.「ブラジルの性的マイノリティをめぐる権利保障」『ラテンアメリカ・ レポート』(38)2: 73-85
・畑惠子 2018. 「セクシュアルマイノリティの多様性をめぐるラテンアメリカ社会の変容」畑惠子・浦部浩之編『ラテンアメリカ―地球規模課題の実践』新評論
・齊藤功高 2019. 「南米におけるLGBTI の現状と米州人権委員会の活動」『文教大学国際学部紀要』(30)1: 17-49
・Corrales, Javier. 2019. “The Expansion of LGBT Rights in Latin America and the Backlash”, Bosia Michael J. et al. eds. The Oxford Handbook of Global LGBT and Sexual Diversity Politics, Oxford University Press, printed from Oxford Handbook, Online.
・Milton, Josh. 2021. “175 trans people were murdered in Brazil last year, with violence continuing to spiral out of control under Jair Bolsonaro”, PinkNews, February 18, 2021.
https://www.pinknews.co.uk/2021/02/18/brazil-trans-murders-jair-bolsonaro-175-people-murdered-2020-antra/
・Milton, Josh. 2022. “Trans teenager, only 17, fatally shot ‘at point-blank range in the head’ in Brazil”, PinkNews, February 20, 2022. https://www.pinknews.co.uk/2022/02/20/brazil-gabbi-mattos-trans-teen/

*1:性的マイノリティの支援団体ANTRAによると、2019年には124人、2020年には175人のトランスジェンダーの人びとが殺害されており、2017年から2020年までの4年間に641人が亡くなったとされている。また、被害にあう人物のなかでは、黒人、セックスワーク従事者、15歳から29歳の若者の割合が高い(Milton 2021)。

*2:ブラジルにおける性的マイノリティへの暴力及び傷害事件については、Corrales(2019)や齊藤(2019)に詳しく記されている。

*3:映画『私はヴァレンティナ』公式サイトを参照した。