ノンバイナリーとしての自己表現

 以下は、エリス・ヤング『ノンバイナリーが分かる本』を読んで、ノンバイナリーとしての自己表現とはどのようなものか、ということについて考えたことである。率直に言って、私にはこの問いに対する答えが分からない。なので、分からないということについて、つらつらと書いている。

 襟足を刈り上げた髪、オーバーサイズの黒のパーカーにジーンズ、キャメルのスニーカー、黒のリュック。これは、私が何らかの制約(職場でのオフィスカジュアルなど)を受けていない時の服装である。身体的な特徴を付け加える。身長160cm台半ば、痩せ型、話すときの声の高さは大体A3からD4あたりだ。
 
 私は出生時に女性を割り振られ、義務教育の間は概ね世間が「女性」に期待するコードに沿って生きてきた。それなりに勉強し、委員長をやり、髪はポニーテールにして、女子の制服を着崩すこともなく着用していた。すでにその頃から、自分のジェンダーセクシュアリティに関して、言語化できない違和を感じてはいたが、教師や他の生徒から見た私は、場にうまく馴染めている優等生だったと思う。
 中学を卒業後に進学した高校は、制服こそあったものの、髪を染めたり、メイクをしたり、アクセサリーをつけたりすることに関して、特にうるさく言わない学校だった。入学してすぐに髪をバッサリ切り、学校指定のネクタイを自分の好みのものに変えた。「かっこいい!沼が男だったら付き合うのに」友人たちは口々にそう言った。悪気はなかったのだろうが、女性とみなされることにも異性と付き合うことにも馴染めず、インターネットで情報を調べ始めたばかりの私を混乱させるには十分な言葉だった。
 自分が何者でどのような表現をしたいのか?どのような表現をすれば、このバイナリーな世界で周囲は私の意図するように私を見てくれるのか?今にして思うと、高校時代の私は、このような疑問を持っていたように思う。ただ、うまく言葉にできなかったので、「周囲とは何かが決定的に違うらしい」という非常に漠然とした思いではあったが。これらの疑問のうち、前者については、「女」でも「男」でもありたくないという意味合いで、ノンバイナリーと名乗ることにしているが、後者に対する答えは、10年以上経過した今でも出ていない。

 大学時代、そして現在も、極力「女」にも「男」にも見えないような髪型や服装を選択しているつもりだ。だが、言葉で説明した場合を除いて、シス女性以外のジェンダーだと判断されたことはない。なぜなら、世間の大半の人には、ジェンダーは「女」か「男」の2つしかなく、その2つの境界線は自明かつ不変のものだと認識されているからだ。その認識においては、境界線が時と場合によって揺らぐ人がいることや、「女」と「男」のいずれにも自己を同定できない、あるいはしたくない人がいることは、想定されていない。私がいくら「女性らしさ」から遠い髪型や服装を選択しようと、こうした認識のもとでは、私は声の響き、肩幅の狭さ、名前といったすぐにはかえ難い要素から「女性」とみなされてしまうのである。
 こうして、自分の意図と関係なくシス女性とみなされ続けると、「ノンバイナリーであり続けること」に対する疲れを感じるようになった。黙っていたらシスとみなされる世界でノンバイナリーであり続けるためには、環境が変わる度に自分のジェンダーについての説明をくり返すことを要請される。しかも、その結果、腫物のように扱われるだけで、何も得られないこともあり得る。「この人は男だろうか?女だろうか?ああ、この声にこのしゃべり方なら女か」などというジャッジの視線を引き受け、自らのジェンダーについて説明というコストがかかるにもかかわらず、負債を背負うリスクすらあるということだ。
 そうこうしているうちに、自分が選択している服装や髪型も、自分がそれらを好むから選んでいるのか、シス女性ではないと周囲に説明しやすくするために選択させられているものなのかも、よく分からなくなってきた。ノンバイナリーとしての自己表現とはいったいどのようなものなのだろか。どのようにすれば「女」と「男」に人間を振り分けるゲームを、世間はやめてくれるのだろうか。私には、分からないことだらけだ。

 ここでは出生時に女性を割り振られた私が、ノンバイナリーとして不可視化され続けてきた経験を記している。一方で、出生時に男性を割り振られた人たちは、ノンバイナリーとしてあろうとする時、あるいは女性へと移行する過程で、疑いや好奇の視線を向けられ続け、言葉や物理的な暴力にさらされる傾向にある。両者は、世間の「バイナリーさ」が生きていく上で大きな障害になるという共通点を持ちつつも、その経験には差異がある。もちろん、誰もが他の誰かにはなれないのだから、ひとりひとりの経験に差異があるのは当然のことだが、バイナリーな世界におけるノンバイナリーなあり方を検討する際に、出生時に割り振られたジェンダーによる経験の差異を、予め不可視化してしまうようなやり方は、避けるべきだ。私は、ないものにされる側から誰かをないものにする側に回るのではなく、ジェンダーをめぐる暴力と不可視化及び不可視化という暴力の連鎖を断ち切りたい。