わたしの道標になってくれる3冊

今のわたしの生存に必要な3冊です。
・清水晶子『フェミニズムってなんですか?』
・山内尚『クイーン舶来雑貨店のおやつ』
・ハン・ガン著、斎藤真理子訳『回復する人間』

自分の輪郭を問い直す
 ここ数年間、わたしの生活の大半は労働に占拠され、その合間にごく限定的なSNS空間と一部の本にだけ触れてきた。
 その結果、同じ時代を生きているフェミニストたちの活動を受け止め損ねてきたと思っている。活動を受け止め損ねるということはつまり、その活動をしている人の生を、自分との差異を、受け止めようとしてこなかったことになる。その間のわたしは、自分自身のフェミニズムの輪郭について考えようとしていなかった。労働とSNSを往復する生活では、身体や経験の異なる人のフェミニズムに触れる機会もなく、自分自身のフェミニズムを疑ったり、輪郭を問い直したりする必要性を感じなかったからだ(SNSでも実際にはたくさんの差異が示されていたはずだが、自分と似通った状況や意見ばかりが目に入っていた)。
 こうしたあり方は危うい。自分の身体や経験のみを前提に、唯一絶対の「正しい」フェミニズムがあるかのように思い込んでしまうからである。自分の身体や経験をもとにフェミニズムを考えるのは、それ自体悪いことではない。だが、身体のありようや、身体と不可分な経験は、ひとりとして同じではない。したがって自分にとってのフェミニズムは自分の身体を通した経験と不可分なものであると認識する必要があるし、個々の身体が異なる以上、自分のフェミニズムは唯一の普遍的なフェミニズムではないし、そんなものは存在しない。
 こうしたことを言葉で羅列すると当然のことのように見えるが、実際に人に会ったとき、話を聞いたとき、差異を意識したとき、わたしはどのように受け止め、どう関わろうとすることができるだろう。正解のない、環境や経験や身体に根ざした動かしがたい差異を感じるとき、どのように自分のフェミニズムの輪郭を問い直すことができるだろうか。
 『フェミニズムってなんですか?』では、共感でつながる心地よさと、そのことによって違和感や差異が切り捨てられていく危うさが扱われている。「共感の危うさと生き延びるための言葉」という対談では、常に居心地の悪い現実を生きざるを得ないマイノリティにとって、居心地の悪さから逃れて生存を優先することの重要性に言及しつつ、居心地の悪さが自身の生存を危うくするわけではない比較的恵まれた人たちが、居心地の悪さに踏みとどまる必要性と踏みとどまることを可能にする条件を探る重要性が示されている。
 ジェンダーバイナリーな世界のルールに沿って生きようとすると、わたしは息ができなくなったり、何も語れなくなったりしてしまう。少し前にようやく「ノンバイナリー」という言葉に出会い、便宜的にこれを名乗っているが、もし世界がバイナリーでなかったらわざわざ名乗らない。わたしにとって「ノンバイナリー」は、あくまでこのジェンダーバイナリーな世界において、自分を説明するための言葉だ。
 バイナリーな世界に馴染めない仲間たちに直接会う機会がある。バイナリーな世界との摩擦が大きいという点は共通しているが、具体的に何にどのような違和を感じて、どのようなあり方を選択し、どのようなジェンダー表現を目指しているのか、どのような名乗りをどのような意図から選択しているかといった点は、様々であるということを話していると改めて感じる。普段は、それぞれの生活に忙しかったり、トランス差別に反対することに労力を割かないといけない状況が続いていたりしているせいで、それらの差異を受け止める機会が少ない。また、SNSにはトランス差別が溢れており、わたしや、おそらく他のバイナリーな世界に馴染めない仲間にとっても、もはや安全な空間ではないため、自分にとって重要なことや、繊細な差異を表明し互いに受け止め合うことは難しい。たまに会えた時くらい、安全な場所で違いを含んだそれぞれのありようを話してみたい(わたしが今はほとんど制約なく外出できる環境と身体で生活しているから言えることだし、そうでない人たちもたくさんいる)。時に居心地が悪くなるかもしれない差異を認識することは、誰かがカテゴリーを代表したり、理想的な「らしさ」を作り上げたりするのとは違うやり方で、安全な場所を作るためにも、必要なことなのではないかと感じている。

息ができないときに
 フィクションに接していて、自分が相手にされていると思えることはほとんどない。登場人物は、ジェンダーバイナリーな世界に疑問を抱くこともなく、出生時に割り当てられた性別を生きていて、心身ともに「健康」であることが多いからだ。ごくたまにそうでない人物が描かれたとしても、過度に悲劇的な物語の主人公であったり、脇役として物語を面白くするスパイスのような役割を割り当てられたりしている。そこで描かれるシスジェンダーでない人物にはスティグマが付与されていたり、他者化されていたりすることがほとんどで、シスジェンダーの登場人物と同等の生として扱われているようには見えない。
 この作品は安心できると思ったのが、『クイーン舶来雑貨店のおやつ』だ。主人公ジャックの服装の変化からは特定の表現をノンバイナリー「らしさ」に結びつけることを回避しつつ、漫画という視覚優位の表現でノンバイナリーの物語を描こうとする意図が読み取れる。何度か読み返しているが、最も印象に残る部分が毎回異なる作品だ。労働現場というジェンダーバイナリーな世界との摩擦の大きさにほとんど耐えられなくなっていたときは、「生きているだけでヒリヒリするの」から始まるジャックの台詞に自分の心情が重なった。
 今読み返してみると、同じ場面でも、このジャックの言葉そのものよりもむしろ、周囲によるジャッジはもう気にしていないのかと思い込んでいたという主旨のカオルの返答が印象に残る。「大丈夫」であるかどうかの判断は、たとえ似た状況にあっても、他者がするべきではないということを、あるいは自分が意識すらせずにしてしまっているかもしれない勝手な判断を、改めて教えてくれている。
 (詳細は漫画を読んでほしいので省略するが、)第3話を読んでから、互いの話したくなさそうなこと、聞かれてもどうしようもないことに、踏み込まない/踏み込まれない、しかし心地よい社交をわたしは実践できるだろうか、ということを特に初対面の人に会う時に考えている。圧倒的に練習が足りず、うまくできていないことが多いが、この作品の存在が、現実の自分のありようを見直すきっかけにもなっている。
 (同作者の『魔女の村』も息ができなくなりそうな時に読みたい作品…!)

そうしてしか生きていけない人へ
 思いもよらない暴力、事故や病気を経験した時、そこからの「回復」の過程は一様ではない。短編集『回復する人間』は、心身に大きなダメージを受けたあと、様々な仕方で人が生活を続けていく様子を描いている。
 「回復」という言葉を使う時、一般的にはかつての状態に戻ることを指す。しかし、ここに収められている作品には、近しい人や自分自身が期待するかつての自分への戻れなさが描かれている。経験そのものを消去することも、経験する前の自分に戻ることもできない状態で、その経験とともに生きていくしかない人たちの物語である。丁寧な筆致で淡々と、そうであるがゆえに人の不可逆性が残酷なまでにはっきりと示されている。
 大きな喪失を経験し生まれ育った国にとどまり続けることができない人、暴力により心身にダメージを受けた人、事故に遭ってかつてのように創作活動ができなくなった人など、それぞれの短編には様々な「回復」を必要とする人たちが描かれている。
 短編「エウロパ」では、暴力を受けて「回復」する過程で変わらざるを得なかったイナと、変わっていくイナとの関係が長くは続かないと予感する「僕」が描かれる。ギターをダメにされたり脅されたりしても、各地のデモで歌い続けることをやめないイナに、「僕」はどうしても「ああいうところ」で歌わないといけないのかとたずねた。

 あたし、自分の中の行けるところまで行ってみたの。外に出る以外、道がない。それがわかったとき、もうお葬式は終わったと思ったの。これ以上、お葬式をやってるみたいな生き方はできないってわかったんだ。もちろんあたしはまだ人が信じられないし、この世界も信じてないよ。だけど、自分自身を信じないことに比べたらそんな幻滅は何でもないと思う。

 危険な目に遭ってまでデモで歌い続ける意味を否定的に問う「僕」に、イナが直接的な答えを明かすことはなかった。それは「あんたに言いたくないこと」だとして、上記の言葉だけを「僕」に返す。「僕」は人を「色や形を大きく変えずに生きていく」人と「何度にもわたって自分の体を取り替える」人とに分け、その上でイナを後者と捉えている。しかし、「外に出る以外」の方法がないと語るイナにとって、「自分の体を取り替える」ことは、選択肢のひとつではなく、そうすることでしか生き延びることができないという切実さを伴った唯一の方法である。
 「僕」にとって、イナと散歩するときだけが、なりたい姿で外を歩ける時間だったが、「僕」は「僕らの散歩が永遠に続かないことも知っている」と語る。「僕」はイナの変化の切実さを理解しなかったが、変化していくイナと今まで同様の自分にとって心地の良い関係を維持できなくなる日が来ることを予感している。この作品は、大切だったはずの人との関係を取り結べなくさせるものとして、「回復」を描いている。
 近しい人が望むとおりの「回復」ではなかったとしても、ままならない傷とともに生き続けている人がたくさんいる。近しい人とこれまでの関係を継続することができなくなったとしても、確かに生きている。もしかしたら「回復」した自分は、これまでとは異なる人たちと異なる関係を結べるかもしれない。「回復」に一区切りつくことがあるのだとしたら、その時自分はどこにいて、何をしているのだろう。