わたしの道標になってくれる3冊

今のわたしの生存に必要な3冊です。
・清水晶子『フェミニズムってなんですか?』
・山内尚『クイーン舶来雑貨店のおやつ』
・ハン・ガン著、斎藤真理子訳『回復する人間』

自分の輪郭を問い直す
 ここ数年間、わたしの生活の大半は労働に占拠され、その合間にごく限定的なSNS空間と一部の本にだけ触れてきた。
 その結果、同じ時代を生きているフェミニストたちの活動を受け止め損ねてきたと思っている。活動を受け止め損ねるということはつまり、その活動をしている人の生を、自分との差異を、受け止めようとしてこなかったことになる。その間のわたしは、自分自身のフェミニズムの輪郭について考えようとしていなかった。労働とSNSを往復する生活では、身体や経験の異なる人のフェミニズムに触れる機会もなく、自分自身のフェミニズムを疑ったり、輪郭を問い直したりする必要性を感じなかったからだ(SNSでも実際にはたくさんの差異が示されていたはずだが、自分と似通った状況や意見ばかりが目に入っていた)。
 こうしたあり方は危うい。自分の身体や経験のみを前提に、唯一絶対の「正しい」フェミニズムがあるかのように思い込んでしまうからである。自分の身体や経験をもとにフェミニズムを考えるのは、それ自体悪いことではない。だが、身体のありようや、身体と不可分な経験は、ひとりとして同じではない。したがって自分にとってのフェミニズムは自分の身体を通した経験と不可分なものであると認識する必要があるし、個々の身体が異なる以上、自分のフェミニズムは唯一の普遍的なフェミニズムではないし、そんなものは存在しない。
 こうしたことを言葉で羅列すると当然のことのように見えるが、実際に人に会ったとき、話を聞いたとき、差異を意識したとき、わたしはどのように受け止め、どう関わろうとすることができるだろう。正解のない、環境や経験や身体に根ざした動かしがたい差異を感じるとき、どのように自分のフェミニズムの輪郭を問い直すことができるだろうか。
 『フェミニズムってなんですか?』では、共感でつながる心地よさと、そのことによって違和感や差異が切り捨てられていく危うさが扱われている。「共感の危うさと生き延びるための言葉」という対談では、常に居心地の悪い現実を生きざるを得ないマイノリティにとって、居心地の悪さから逃れて生存を優先することの重要性に言及しつつ、居心地の悪さが自身の生存を危うくするわけではない比較的恵まれた人たちが、居心地の悪さに踏みとどまる必要性と踏みとどまることを可能にする条件を探る重要性が示されている。
 ジェンダーバイナリーな世界のルールに沿って生きようとすると、わたしは息ができなくなったり、何も語れなくなったりしてしまう。少し前にようやく「ノンバイナリー」という言葉に出会い、便宜的にこれを名乗っているが、もし世界がバイナリーでなかったらわざわざ名乗らない。わたしにとって「ノンバイナリー」は、あくまでこのジェンダーバイナリーな世界において、自分を説明するための言葉だ。
 バイナリーな世界に馴染めない仲間たちに直接会う機会がある。バイナリーな世界との摩擦が大きいという点は共通しているが、具体的に何にどのような違和を感じて、どのようなあり方を選択し、どのようなジェンダー表現を目指しているのか、どのような名乗りをどのような意図から選択しているかといった点は、様々であるということを話していると改めて感じる。普段は、それぞれの生活に忙しかったり、トランス差別に反対することに労力を割かないといけない状況が続いていたりしているせいで、それらの差異を受け止める機会が少ない。また、SNSにはトランス差別が溢れており、わたしや、おそらく他のバイナリーな世界に馴染めない仲間にとっても、もはや安全な空間ではないため、自分にとって重要なことや、繊細な差異を表明し互いに受け止め合うことは難しい。たまに会えた時くらい、安全な場所で違いを含んだそれぞれのありようを話してみたい(わたしが今はほとんど制約なく外出できる環境と身体で生活しているから言えることだし、そうでない人たちもたくさんいる)。時に居心地が悪くなるかもしれない差異を認識することは、誰かがカテゴリーを代表したり、理想的な「らしさ」を作り上げたりするのとは違うやり方で、安全な場所を作るためにも、必要なことなのではないかと感じている。

息ができないときに
 フィクションに接していて、自分が相手にされていると思えることはほとんどない。登場人物は、ジェンダーバイナリーな世界に疑問を抱くこともなく、出生時に割り当てられた性別を生きていて、心身ともに「健康」であることが多いからだ。ごくたまにそうでない人物が描かれたとしても、過度に悲劇的な物語の主人公であったり、脇役として物語を面白くするスパイスのような役割を割り当てられたりしている。そこで描かれるシスジェンダーでない人物にはスティグマが付与されていたり、他者化されていたりすることがほとんどで、シスジェンダーの登場人物と同等の生として扱われているようには見えない。
 この作品は安心できると思ったのが、『クイーン舶来雑貨店のおやつ』だ。主人公ジャックの服装の変化からは特定の表現をノンバイナリー「らしさ」に結びつけることを回避しつつ、漫画という視覚優位の表現でノンバイナリーの物語を描こうとする意図が読み取れる。何度か読み返しているが、最も印象に残る部分が毎回異なる作品だ。労働現場というジェンダーバイナリーな世界との摩擦の大きさにほとんど耐えられなくなっていたときは、「生きているだけでヒリヒリするの」から始まるジャックの台詞に自分の心情が重なった。
 今読み返してみると、同じ場面でも、このジャックの言葉そのものよりもむしろ、周囲によるジャッジはもう気にしていないのかと思い込んでいたという主旨のカオルの返答が印象に残る。「大丈夫」であるかどうかの判断は、たとえ似た状況にあっても、他者がするべきではないということを、あるいは自分が意識すらせずにしてしまっているかもしれない勝手な判断を、改めて教えてくれている。
 (詳細は漫画を読んでほしいので省略するが、)第3話を読んでから、互いの話したくなさそうなこと、聞かれてもどうしようもないことに、踏み込まない/踏み込まれない、しかし心地よい社交をわたしは実践できるだろうか、ということを特に初対面の人に会う時に考えている。圧倒的に練習が足りず、うまくできていないことが多いが、この作品の存在が、現実の自分のありようを見直すきっかけにもなっている。
 (同作者の『魔女の村』も息ができなくなりそうな時に読みたい作品…!)

そうしてしか生きていけない人へ
 思いもよらない暴力、事故や病気を経験した時、そこからの「回復」の過程は一様ではない。短編集『回復する人間』は、心身に大きなダメージを受けたあと、様々な仕方で人が生活を続けていく様子を描いている。
 「回復」という言葉を使う時、一般的にはかつての状態に戻ることを指す。しかし、ここに収められている作品には、近しい人や自分自身が期待するかつての自分への戻れなさが描かれている。経験そのものを消去することも、経験する前の自分に戻ることもできない状態で、その経験とともに生きていくしかない人たちの物語である。丁寧な筆致で淡々と、そうであるがゆえに人の不可逆性が残酷なまでにはっきりと示されている。
 大きな喪失を経験し生まれ育った国にとどまり続けることができない人、暴力により心身にダメージを受けた人、事故に遭ってかつてのように創作活動ができなくなった人など、それぞれの短編には様々な「回復」を必要とする人たちが描かれている。
 短編「エウロパ」では、暴力を受けて「回復」する過程で変わらざるを得なかったイナと、変わっていくイナとの関係が長くは続かないと予感する「僕」が描かれる。ギターをダメにされたり脅されたりしても、各地のデモで歌い続けることをやめないイナに、「僕」はどうしても「ああいうところ」で歌わないといけないのかとたずねた。

 あたし、自分の中の行けるところまで行ってみたの。外に出る以外、道がない。それがわかったとき、もうお葬式は終わったと思ったの。これ以上、お葬式をやってるみたいな生き方はできないってわかったんだ。もちろんあたしはまだ人が信じられないし、この世界も信じてないよ。だけど、自分自身を信じないことに比べたらそんな幻滅は何でもないと思う。

 危険な目に遭ってまでデモで歌い続ける意味を否定的に問う「僕」に、イナが直接的な答えを明かすことはなかった。それは「あんたに言いたくないこと」だとして、上記の言葉だけを「僕」に返す。「僕」は人を「色や形を大きく変えずに生きていく」人と「何度にもわたって自分の体を取り替える」人とに分け、その上でイナを後者と捉えている。しかし、「外に出る以外」の方法がないと語るイナにとって、「自分の体を取り替える」ことは、選択肢のひとつではなく、そうすることでしか生き延びることができないという切実さを伴った唯一の方法である。
 「僕」にとって、イナと散歩するときだけが、なりたい姿で外を歩ける時間だったが、「僕」は「僕らの散歩が永遠に続かないことも知っている」と語る。「僕」はイナの変化の切実さを理解しなかったが、変化していくイナと今まで同様の自分にとって心地の良い関係を維持できなくなる日が来ることを予感している。この作品は、大切だったはずの人との関係を取り結べなくさせるものとして、「回復」を描いている。
 近しい人が望むとおりの「回復」ではなかったとしても、ままならない傷とともに生き続けている人がたくさんいる。近しい人とこれまでの関係を継続することができなくなったとしても、確かに生きている。もしかしたら「回復」した自分は、これまでとは異なる人たちと異なる関係を結べるかもしれない。「回復」に一区切りつくことがあるのだとしたら、その時自分はどこにいて、何をしているのだろう。

暴力をみて、暴力について考える

以下は、『私はヴァレンティナ』を観て、自分自身の暴力について考えたことだ。
手元にパンフレットもなく、映画を観たのも一度だけなので、細かい部分での記憶違いがあるかもしれない。
また、内容に踏み込んでいるため、ストーリーを知らない状態で映画を観たい場合や、暴力に関する記述を読むのがしんどい場合は、閲覧をおすすめしない。

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 『私はヴァレンティナ』は、暴力の映画だった。
 90分という映画としては短い時間のなかに、最初から最後まで暴力が描かれていた。

1 暴力を見ること
 主人公のヴァレンティナは、ブラジルの都市部で暮らす高校生。父親が突然姿を消し、母親が新たな仕事を地方の小さな街で見つけたことに伴い、母親とともに引っ越すことになった。
 映画は、引っ越しを前にしたヴァレンティナが友人2人とクラブを楽しもうとする場面から始まる。友人2人はそれぞれ身分証明書を提示して先に入店したが、ヴァレンティナは身分証明書の偽造を店員に見抜かれて入店を断られる。
 確かにヴァレンティナは証明書を偽造していた。なぜなら、トランス女性のヴァレンティナには、カミングアウトを伴わずに提示できる身分証明書がなかったからだ。出生届に記載されている名前の、男性として生活している頃の写真が貼付されている身分証明書なら持っていたが、それを出したところでヴァレンティナが証明書と同一人物であるとは信じてもらえない。実際、その身分証明書を提示すると、店員は「今度は弟の身分証明書か?」と言う。
 何とか入店し踊っていると、男が突然ヴァレンティナにキスをする。その後、男はどこからかヴァレンティナがトランス女性であることを聞きつけ、大勢の人で賑わうクラブで「男なんだってな?」「せめてキスする前に言え」と吐き捨てるように言う。一切ヴァレンティナの同意を得ようとせず、勝手にキスをしたのは男だ。しかも、(おそらく)入口にいた店員がアウティングし、男が大声で言ったことで、ヴァレンティナがトランス女性であることは、一瞬にして広まってしまった。このような厳しい状況でも、ヴァレンティナは「勝手にキスしたのはそっち」とはっきりと男に言い返す。すると今度は、男はヴァレンティナを黙らせようと手を出す。周囲は騒然とし、大勢にアウティングされ、暴力を振るわれたヴァレンティナは、友人との最後の時間を楽しむどころではなくなってしまう。
 誰もが使用できるはずの身分証明書が使えないこと、そのせいでカミングアウトせざるを得なかったこと、一瞬にしてアウティングされてしまったこと、合意なしの一方的なキスという性暴力、そして身勝手な男の態度の豹変から滲み出るトランス女性への嫌悪。映画が始まって10分と経たないうちに、私が覚えているだけでも、これだけ多くの暴力に、ヴァレンティナはさらされていた。ヴァレンティナがクラブに入るシーンを観ながら、クラブなんて行ったら絶対に危ない、やめておいたほうがいいと私は思った。だが、なぜヴァレンティナはクラブを楽しむことができないのだろう?ヴァレンティナは友人との最後の時間を楽しみたいだけなのに、映画を観ている私は、どうして危険を回避するためにヴァレンティナが我慢した方がよいと考えてしまっているのだろう?ヴァレンティナは友だちと同じことをしようとしているだけなのに。
 一般に、トランス女性は暴力にさらされやすい。なぜなら、この世界には出生時に割り振られた性別が男性である人が「男らしく」ないことによる差別も、女性差別も、トランス差別もたくさんあり、トランス女性は複合的な暴力を被ることが多いからだ。トランス嫌悪による殺人も起きている。このことは、残念ながら事実だ。だから、危ないところに行かないほうがいいというのは、当座の対応としては妥当といえるのかもしれない。しかし、それとはまた別の水準で、暴力を減らしていくことを考える必要がある。それをせずにただ、危険な場所に行かないほうがいいと言うことは、クラブでヴァレンティナが多くの暴力にさらされたのは、一定程度自己責任だと言っているのと同義ではないか?必要なことは危険な場所を減らすことであって、ヴァレンティナが我慢をする必要など何もないはずだ。にもかかわらず、トランス女性が危険な場所を回避することを、まるでそれが暴力を避ける唯一の手段であるかのように考えている自分自身に気付き、そのことに愕然とした。

2 暴力の連続
 小さな街に引っ越したヴァレンティナは、母親と現地の高校へ行き、転校の手続きを進める。新学期までは少し時間があったが、前の高校を途中で退学していたヴァレンティナは、新学期までの長期休暇中に行われている補習に参加することを勧められる。ヴァレンティナは出欠確認の際に出生届に記載されている名前で呼ばれてしまうのではないかと不安を抱きつつ、補習に参加することを決める。
 ヴァレンティナは補習で出会った生徒たちと急速に距離を縮める。場当たり的なセックスをすることはあるものの、求めている親密な関係を築いたことのないジュリオ、妊娠中で、化学も数学も苦手だがハッキングが特技のアマンダの2人と特に仲良くなる。だが、前の学校での経験(作中では、経済的な問題や成績の問題ではなく、トランス女性であることが退学の原因であったことが示唆されている)や前述のクラブでの出来事を踏まえ、ヴァレンティナはどんなに親しくなってもトランス女性であることは言わないようにしていた。
 そんな時、補習も無事終わり、仲良くなった3人で仮装パーティーに行かないかという話になる。前述のクラブでの経験もあり、クラブで開催される仮装パーティーへの参加にヴァレンティナは躊躇したが、仲良くなった友だちと一緒に楽しみたい気持ちもあり、友人が身分証明書を提示したら自分は身分証明書を出さなくても入店できることもあり、結局参加した。今度は、以前のように暴力にさらされることもなく、友人たちとパーティーを楽しんでいた。そうして楽しみながらも、ヴァレンティナは、クラブが安全な場所ではないことは分かっており、友人に勧められるままにお酒を飲みすぎていることも自覚していたため、友人と常に一緒に行動するようにしていた。しかし、途中で友人とはぐれてしまい、飲酒の影響もあり、クラブのバルコニーのような人気のない場所で眠ってしまう。すると、仮面をつけて、マントを被った男がヴァレンティナに近寄ってきて、眠っているヴァレンティナの身体を勝手に触り始める。服の中に手を入れ、プライベートゾーンを無遠慮に撫でまわす。その不審な動きにヴァレンティナは目を覚まし、男を振り払い逃げるように家に帰る。
 この日を境に、ヴァレンティナの顔に男性の身体をコラージュした画像が高校のメーリングリストで出回るようになる。ヴァレンティナは、友人たちの手を借りて、残されたマントを手掛かりに仮面の男の正体を突き止める。男の正体は、補習にも参加していた高校の同級生だった。精肉店で働くその男は、兄とふたり、小さな街で好青年として知られていた。ヴァレンティナは男に直接、「誰がやったかは分かっている」と伝えたが、嫌がらせが止まるどころか、男と男の兄に目をつけられ、さらなる暴力のターゲットにされてしまう。
 そもそも、ヴァレンティナが女性のように見えなかったら、男は眠っている人の身体を勝手に撫で回しただろうか?おそらく、ヴァレンティナが女性のように見えたから、眠っている女性に好き勝手できると思い、プライベートゾーンまで勝手に触ったのだろう。ここからは明らかに女性への性暴力が読み取れる。ヴァレンティナの場合、その性暴力によってトランス女性であることを知られてしまい、トランス女性であることを示唆し嘲笑する内容のコラージュ画像を拡散されてしまう。つまり、ヴァレンティナは女性への性暴力をきっかけに、トランス女性嫌悪による暴力にさらされているのである。これは冒頭のクラブでも同様である。
 加害者の男に犯人は分かっていると伝えた数日後、男と男の兄は、友だちの家から帰宅する途中のヴァレンティナを車で連れ去り、性的暴行を加える。さらに、男の兄は、高校生の保護者を対象に、ヴァレンティナ入学に反対する署名を集め始める。小さな街で、従来から高い信用を得ている男の、高校生の「健全」な教育環境を守ろう、というトランス女性差別の声だけが大きく響き渡り、実際に二桁台の「賛成」の署名が集まり、彼らの差別的な主張が一定の支持を得ていることが示される。ヴァレンティナは被害を警察にも相談したものの、彼ら兄弟は逮捕されることもなく、彼らが暴力を振るった事実が街の人に広まることもない。性的暴行に傷つき、コラージュ画像や反対署名によって今や街中の人にアウティングされてしまったヴァレンティナが、大家から家を追い出され、教育を受けられない可能性に怯えて生活しなければいけないにもかかわらず、暴力を振るい続けている彼らは、今まで通りの生活を送っていた。
 仮装パーティーでの暴力をきっかけに、トランス嫌悪によるアウティング、署名活動、性的暴行と、再び暴力の連続が描かれている。友だちと仮装パーティーを楽しみ、高校で授業を受ける。ただそれだけのことが、トランス女性であるがゆえに困難になっている状況が描かれている。これは、相次ぐ暴力によって、すでに隣にいるひとりの人の生や生活が脅かされている様子を描いた映画である。「健全」な教育環境の維持という名目でヴァレンティナの入学に反対する署名活動が行われたが、ヴァレンティナは補習の時から、その高校にいた。仮装パーティーでヴァレンティナに性暴力を振るった男と、同じ教室に、すでにいた。それで、何か問題でもあったのだろうか?「健全」な教育環境が損なわれるほどの何かが、ヴァレンティナが高校に通うという他の人と同じことをしただけで、起こったのだろうか。ヴァレンティナはただ、出生届に記載されている名前で点呼されないか怯えているだけだった。それなのに、ヴァレンティナがトランス女性であることを、非常に暴力的に「発見」した途端、ヴァレンティナが高校に通うことは大きな問題となってしまう。署名運動はトランスフォビアであり、さまざまな暴力を振るい続けている男たちが、それらすべてを隠蔽するための手段であることは明らかである。

3 「ヴァレンティナ」として生きる
 ヴァレンティナが安全に提示できる身分証明書を持っていないのには理由がある。ブラジルでは、日本と異なり、性別の変更に医学の介入は不要である。手続きさえすれば、公的書類の性別を望む性に変更することができるし、名前を変更することも可能である(畑 2018; 齋藤 2019)。ここで問題となるのは、ヴァレンティナが未成年であるということである。未成年の場合、公的書類の性別や名前の変更の手続きをするには、法的な保護者のサインが必要だ。ヴァレンティナのケースでは、父親が母親と離婚する前に姿を消してしまったため、法的な保護者、つまり両親のサインが必要だった。公的書類の名前を変更していない状態で、ヴァレンティナとして高校に通うにも、両親のサインがある書類を提出する必要があった。そのため、ヴァレンティナは新学期から通称名で高校に通うために、サインをもらうべく、父親を捜し始める。
 ハッキングが得意なアマンダの助けにより父親の電話番号が分かり、連絡はついたものの、来ると約束した日に父親はやってこなかった。結果的に、ヴァレンティナが例の兄弟に車で連れ去られて性的暴行を受けた後に父親はようやく姿を現した。書類にサインをする人物が揃ったが、ヴァレンティナがトランス女性であることはすでにアウティングされ、入学反対署名も行われていた。その影響で最初に住んだ家を追い出され、母親の恋人の家に身を寄せている状態だった。このまま母親とここに残って高校に通うのか、別の街に住む父親と父親の新たな恋人と暮らすのか。ヴァレンティナは迷ったが、最終的には父親にサインをもらい、性別変更の手続きをし、高校にも「ヴァレンティナ」として通えるようにして、街に残って母親と生活することを選択した(というか、父親が恋人の両親がトランス差別的な人たちであることを仄めかしたため、事実上選択肢などなかった)。
 ヴァレンティナの性別変更手続きは、すぐに終わった。公的書類の性別変更に医学の介入を絶対としている日本で生活している私から見ると、気が抜けるほど一瞬だった。そこまでに描かれた数々の暴力からは想像がつかないほど、性別変更に関する制度が整えられていると感じた。映画を観た後に調べたところによると、同性間の性行為を禁止する法律の廃止や同性婚や性別変更などの法整備の過程は、国によって様々である。同性婚や性別変更に関する法律は、多くの国においては、人びとの性的マイノリティへの嫌悪の減少を受けて法が整備された。それに対し、ブラジルを含むラテンアメリカの一部の国では、一般市民の性的マイノリティへの認識が変化する前に、法律が施行されたことが指摘されている(Corrales 2019)。また、性的マイノリティに対する嫌悪は以前から存在していたものの、近年のブラジルにおける激しいバックラッシュには、差別発言を繰り返す大統領と一部の保守的な宗教が政治的スポンサーになっているという新たな特徴があることも指摘されている(Corrales 2019)。
 制度の違いは、改めて十代のヴァレンティナがブラジルの小さな街で生活しているということについて、考えるきっかけになった。私は、私のなかにある「トランス」イメージでヴァレンティナを捉えようとしていなかったか。その場所で、未成年で、トランス女性として生活することを想像する時、私は何も知らないにもかかわらず、自分のなかにある曖昧なイメージだけで、その生を解釈してしまおうとしていなかったか?
 ブラジルでは、毎年100人を超える人たちがトランスジェンダーであることを理由に殺害されているという*1トランスジェンダーの平均寿命は30歳から35歳とも言われている*2。この映画はこうした現実を受けて、自らも性的マイノリティの監督とプロデューサーが数年をかけて資金を集め、ヴァレンティナ役にはトランス女性の俳優をキャスティングして制作された映画であり*3、フィクションではあるが、非常に現実との距離が近い。ブラジルの状況をほとんど知りもせずに、ヴァレンティナを「分かった」気になるのは、それこそ現に生きている人たちに対する暴力だ。背景を何も知らず、ただ映画だけを見て、「こんなに次から次に暴力にさらされて、ブラジルのトランスの人たちはかわいそうだ」と思う瞬間が何度かあった。映画のなかでヴァレンティナが多くの暴力にさらされていたことは事実だが、相手の生活や文化を何も知らずに、かわいそうだと決めつけるのは、「男に抑圧されたかわいそうな第三世界の女性たちを助けてあげなくちゃ」と思う「フェミニスト」たちと同じではないか?
 映画の終盤で、ヴァレンティナはさらなる暴力にさらされる。ヴァレンティナが新学期の初日に登校すると、例の男の兄が、ナイフを持って学校に乗り込んできたのである。教員や同級生たちがヴァレンティナを守るように盾になるなか、ヴァレンティナは前に進み出て男と対峙する。そこで、警察が到着したことにより、傷害事件はかろうじて回避される。だが、この男の弟であり、仮装パーティーでヴァレンティナに性暴力を振るい、その後も兄と結託して様々な暴力を振るい続けている人物は、何食わぬ顔で同じ教室に同級生として座っている。ナイフを振り回す男はいなくなったし、ヴァレンティナはヴァレンティナとして高校に通うことができるようになったが、依然としてこの街は、学校のなかですら、ヴァレンティナにとっては安全な場所ではない。
 映画は、「ヴァレンティナ」と教員に点呼され、ヴァレンティナが笑みを浮かべて返事をする場面で終わる。ヴァレンティナを応援する人が少なからずいて、ヴァレンティナはヴァレンティナとして高校に通うことに成功した。そのことは、希望なのかもしれない。それでも、なぜ笑えるのだろうと思ってしまうくらい暴力の連続だったし、これからも暴力にさらされ続けるようにしか見えなかった(ここには書ききれなかった暴力もたくさんある)。

4 見ることと距離
 ヴァレンティナには理解のある母親がいて、十代からホルモン剤を飲むことができて、女性として「パス」している。父親のことで危うい状況にもなったが、公的書類の性別変更もできた。学校の教員たちは法律に基づいてヴァレンティナを守ろうとしており、ヴァレンティナ自身も成績優秀で、高校卒業後の進路を検討できる環境にある。そのヴァレンティナでさえ、これだけの暴力にさらされてしまうなら、この映画で描かれたよりも悲惨な暴力に、現にさらされ、サポートを得られていないトランスの人たちがいることは、想像に難くない。遠く離れた場所でのその人たちの生を、悲惨な事件や、追悼や、死者数となって、私ははじめて知るかもしれない。けれど、最初から事件や追悼される名前や死者数のうちの1だったわけではなく、多くの暴力にさらされている生が現にあることを覚えておきたい。インスタントで分かりやすい「理解」をしてしまいがちな私は、その死や生を自分のなかにある曖昧なイメージでジャッジせず、政治や文化、生活などの生と不可分な背景を知ろうとすることを続けていくしかないのだと思う。
 映画を観た後、私はヴァレンティナを「女性にアイデンティファイしている人」と言ったが、そんなことは分からない。確かにヴァレンティナは女性として生活していたし、またそう扱われることを望んでいたが、それはヴァレンティナが女性にアイデンティファイしていることを示していない。ヴァレンティナが自分のジェンダーをどのように認識しているか語るシーンなどない。トランスに対する暴力のリスクを避けるため、自分のなかで折り合いのつく範囲で、世間に「パス」しやすい状態を選んでいる可能性もある。よく知りもしないのに、他人のジェンダーを決めてはいけない。フィクションを相手に何を大袈裟な、と言われるかもしれないが、これほど現実と距離の近い映画の登場人物に対してやることは、目の前の人にもやってしまっているだろう、と私は思う。『私はヴァレンティナ』は暴力の映画であり、その暴力を見ている私自身が日常的に振るっている暴力を浮かび上がらせる映画だった。

参考
・映画『私はヴァレンティナ』公式サイト https://www.hark3.com/valentina/#modal
・近藤亮平 2019.「ブラジルの性的マイノリティをめぐる権利保障」『ラテンアメリカ・ レポート』(38)2: 73-85
・畑惠子 2018. 「セクシュアルマイノリティの多様性をめぐるラテンアメリカ社会の変容」畑惠子・浦部浩之編『ラテンアメリカ―地球規模課題の実践』新評論
・齊藤功高 2019. 「南米におけるLGBTI の現状と米州人権委員会の活動」『文教大学国際学部紀要』(30)1: 17-49
・Corrales, Javier. 2019. “The Expansion of LGBT Rights in Latin America and the Backlash”, Bosia Michael J. et al. eds. The Oxford Handbook of Global LGBT and Sexual Diversity Politics, Oxford University Press, printed from Oxford Handbook, Online.
・Milton, Josh. 2021. “175 trans people were murdered in Brazil last year, with violence continuing to spiral out of control under Jair Bolsonaro”, PinkNews, February 18, 2021.
https://www.pinknews.co.uk/2021/02/18/brazil-trans-murders-jair-bolsonaro-175-people-murdered-2020-antra/
・Milton, Josh. 2022. “Trans teenager, only 17, fatally shot ‘at point-blank range in the head’ in Brazil”, PinkNews, February 20, 2022. https://www.pinknews.co.uk/2022/02/20/brazil-gabbi-mattos-trans-teen/

*1:性的マイノリティの支援団体ANTRAによると、2019年には124人、2020年には175人のトランスジェンダーの人びとが殺害されており、2017年から2020年までの4年間に641人が亡くなったとされている。また、被害にあう人物のなかでは、黒人、セックスワーク従事者、15歳から29歳の若者の割合が高い(Milton 2021)。

*2:ブラジルにおける性的マイノリティへの暴力及び傷害事件については、Corrales(2019)や齊藤(2019)に詳しく記されている。

*3:映画『私はヴァレンティナ』公式サイトを参照した。

ノンバイナリーとしての自己表現

 以下は、エリス・ヤング『ノンバイナリーが分かる本』を読んで、ノンバイナリーとしての自己表現とはどのようなものか、ということについて考えたことである。率直に言って、私にはこの問いに対する答えが分からない。なので、分からないということについて、つらつらと書いている。

 襟足を刈り上げた髪、オーバーサイズの黒のパーカーにジーンズ、キャメルのスニーカー、黒のリュック。これは、私が何らかの制約(職場でのオフィスカジュアルなど)を受けていない時の服装である。身体的な特徴を付け加える。身長160cm台半ば、痩せ型、話すときの声の高さは大体A3からD4あたりだ。
 
 私は出生時に女性を割り振られ、義務教育の間は概ね世間が「女性」に期待するコードに沿って生きてきた。それなりに勉強し、委員長をやり、髪はポニーテールにして、女子の制服を着崩すこともなく着用していた。すでにその頃から、自分のジェンダーセクシュアリティに関して、言語化できない違和を感じてはいたが、教師や他の生徒から見た私は、場にうまく馴染めている優等生だったと思う。
 中学を卒業後に進学した高校は、制服こそあったものの、髪を染めたり、メイクをしたり、アクセサリーをつけたりすることに関して、特にうるさく言わない学校だった。入学してすぐに髪をバッサリ切り、学校指定のネクタイを自分の好みのものに変えた。「かっこいい!沼が男だったら付き合うのに」友人たちは口々にそう言った。悪気はなかったのだろうが、女性とみなされることにも異性と付き合うことにも馴染めず、インターネットで情報を調べ始めたばかりの私を混乱させるには十分な言葉だった。
 自分が何者でどのような表現をしたいのか?どのような表現をすれば、このバイナリーな世界で周囲は私の意図するように私を見てくれるのか?今にして思うと、高校時代の私は、このような疑問を持っていたように思う。ただ、うまく言葉にできなかったので、「周囲とは何かが決定的に違うらしい」という非常に漠然とした思いではあったが。これらの疑問のうち、前者については、「女」でも「男」でもありたくないという意味合いで、ノンバイナリーと名乗ることにしているが、後者に対する答えは、10年以上経過した今でも出ていない。

 大学時代、そして現在も、極力「女」にも「男」にも見えないような髪型や服装を選択しているつもりだ。だが、言葉で説明した場合を除いて、シス女性以外のジェンダーだと判断されたことはない。なぜなら、世間の大半の人には、ジェンダーは「女」か「男」の2つしかなく、その2つの境界線は自明かつ不変のものだと認識されているからだ。その認識においては、境界線が時と場合によって揺らぐ人がいることや、「女」と「男」のいずれにも自己を同定できない、あるいはしたくない人がいることは、想定されていない。私がいくら「女性らしさ」から遠い髪型や服装を選択しようと、こうした認識のもとでは、私は声の響き、肩幅の狭さ、名前といったすぐにはかえ難い要素から「女性」とみなされてしまうのである。
 こうして、自分の意図と関係なくシス女性とみなされ続けると、「ノンバイナリーであり続けること」に対する疲れを感じるようになった。黙っていたらシスとみなされる世界でノンバイナリーであり続けるためには、環境が変わる度に自分のジェンダーについての説明をくり返すことを要請される。しかも、その結果、腫物のように扱われるだけで、何も得られないこともあり得る。「この人は男だろうか?女だろうか?ああ、この声にこのしゃべり方なら女か」などというジャッジの視線を引き受け、自らのジェンダーについて説明というコストがかかるにもかかわらず、負債を背負うリスクすらあるということだ。
 そうこうしているうちに、自分が選択している服装や髪型も、自分がそれらを好むから選んでいるのか、シス女性ではないと周囲に説明しやすくするために選択させられているものなのかも、よく分からなくなってきた。ノンバイナリーとしての自己表現とはいったいどのようなものなのだろか。どのようにすれば「女」と「男」に人間を振り分けるゲームを、世間はやめてくれるのだろうか。私には、分からないことだらけだ。

 ここでは出生時に女性を割り振られた私が、ノンバイナリーとして不可視化され続けてきた経験を記している。一方で、出生時に男性を割り振られた人たちは、ノンバイナリーとしてあろうとする時、あるいは女性へと移行する過程で、疑いや好奇の視線を向けられ続け、言葉や物理的な暴力にさらされる傾向にある。両者は、世間の「バイナリーさ」が生きていく上で大きな障害になるという共通点を持ちつつも、その経験には差異がある。もちろん、誰もが他の誰かにはなれないのだから、ひとりひとりの経験に差異があるのは当然のことだが、バイナリーな世界におけるノンバイナリーなあり方を検討する際に、出生時に割り振られたジェンダーによる経験の差異を、予め不可視化してしまうようなやり方は、避けるべきだ。私は、ないものにされる側から誰かをないものにする側に回るのではなく、ジェンダーをめぐる暴力と不可視化及び不可視化という暴力の連鎖を断ち切りたい。

ここではない、どこかへ

 高校を出て、運よく大学にも進学でき、経済的には厳しい面もあったが大学院を修士まで出て就職した。大学院の指導教授にはいつでも戻っておいでと言われたし、就職して2年目の人事考課ではAをもらった。他人からは、きっと私は順調に時を刻んでいるように見えるだろう。それを完全に否定することはできない。私が恵まれた環境にあったことも、その環境にあったからこそ結果を出すことに集中できたことも、事実だ。

 一方で、私は自分を語る言葉を持たない。自分について何か重要なことを語ろうとすると、「分からない」としか言えなくなってしまうのだ。どのジェンダーで生活したいのか、他人とどのような距離感でどのような関係性を構築していきたいのか、何をしていれば終わらせることを考えずに生活できるのか、30歳に近づく今でも分かっていない。
 ただ、高校や大学を出てすぐに就職し、20代半ばで結婚し、20代後半から30代前半にかけて子どもを産み育てている会社の同僚たちを見ていると、彼女たち(彼ら)には私とは全く異なる時間が流れていることだけは感じ取ることができた。彼女たち(彼ら)は自分のジェンダーセクシュアリティの不確かさを疑ったこともなければ、婚姻制度の利用に躊躇もなく、血のつながった子どもを持ち、定年まで同じ仕事を続けることを前提として生活をデザインしているように見える。折に触れて自分自身の不確かさを疑わずにいられる生活は、私のそれと比べて安定的に、そして着実に時を刻んでいるように思える。また、同僚たちはプライベートで何かに迷うと、すぐに会社の上司や同僚に相談している。交際、結婚、子育て、老後などその内容は様々だ。ロールモデルが身近にたくさんいる生活など、私にはまったく想像もできない。また、セクシュアリティや疾病の状態など、マイノリティであることのカミングアウトなしにプライベートの相談などできるわけもない。こうしたプライベートの相談事をところ構わず大声でしているのを耳にする度に、私とは別の時間を生きていることを感じる。そして、喉に何かが詰まったような不快感に耐えるしかなくなる。

 とにかく、色々なことが分からないので、ここではジェンダーに限って話をする。私は生まれた時に割り振られた性別が女性で、今も一応社会的には女性として生活している。しかし、自分のことを女性であると思っているわけでもないし、男性になりたいわけでもない。それでも、生活に支障はなかったし、身体に何らかの医学的なアプローチをする気もなかったので、この点を深く考えようとはしてこなかった。考えなくても、自分の時間を進めることはできると思っていたのだ。
 しかし、本当にそうだろうか?職場でバレンタインに男性の同僚たちからお菓子をもらって吐き気がしたことがある。私にとっては違和のある身体を、セックスの最中にくり返し「女性」として規定し直す当時の交際相手の言葉や視線に絶望的な気分になることもあった。自分の身体のラインを直視するのが難しく、自分の身体を中性的に保つために、いつも必要カロリーを摂取できていない。それでも、生活に支障はなく、時間を進めることができていると言い切れるだろうか?
 私は分からないことを切り離して、分からないまま無理やり時間を進めてきた。だから、切り離された事柄については、ずっと時が止まったままだ。下手したら、違和を覚えた時や一般的とされるルートに乗れないと気付いた時から、ずっと止まっていることすらあり得る。ここにきて、わからないままにしてきたジェンダーが、自分がどこでどのように生活したいかにもつながる重要な要素であることに気付き、頭を抱えている。
 喉に何かが詰まったような不快感に耐えながら、ここに居続ける必要はないと思っている。ならば、どこへ?この問いに対する答えを、私は持っていない。思い返せば、今だけじゃなくいつだって、私は私のジェンダーを規定しようとする他人の視線のない、ここではないどこかへ、行きたがっていた。

 けれども、私は、そんな世界を知らない。


 今の状態/場所にとどまり続けることも苦しく、かといってここに行きたいという希望もない。でも、様々な生の在り様を丁寧に伝えてくださった、高井ゆと里さん「時計の針を抜く ―トランスジェンダーが閉じ込めた時間」と映画『片袖の魚』に出会えたことに感謝しています。高井さんにはエッセイが掲載されている『シモーヌ』までいただき、重ねて感謝申し上げます。

ドッジボールをしましょう

「今日の昼休みはクラスでドッジボールをしましょう!」
小学生のころ、先生が笑顔でそんなことを言った日の昼休みは、決まって図書室に逃走した。

私は人というものが得意ではない。
人と四六時中一緒にいることも、人とコミュニケーションを取ることも、人の集団のなかにいることも、人と人の間に入って何かを調整することも、人と「恋人」という関係を維持することも、とにかく様々なレベルで人が得意ではない。

いつからかは分からないけれど、さかのぼると小学校高学年になる頃には、すでにそうだった気がする。冒頭のように、クラス単位の行事からはしょっちゅう逃走していたし、それだけでなく、ごく親しいはずの友達さえ、遠ざけることがあった。

小学校6年生の時、同じクラスには親しい友達(と少なくとも周囲には見せていたはず)がふたりいた。友人Aは4年生の時からの友達で、男性アイドルやテレビドラマに夢中の彼女とピアノに熱中していた私には、まったくと言っていいほど共通の趣味がなかった。唯一の共通点を挙げるとしたら、ふたりとも転校生だったことくらい。地方の小学校に転校生はそう多くなく、そのため本人の意思にかかわらず目立った。小学校2年生でこの小学校に転校してきた私は、先生の使う方言が分からず、イントネーションやアクセントがひとりだけ違う教科書の音読はちょっとした見世物になっていた。4年生で転校してきた彼女に近づいたのは、そうした経験が影響しているように思う。あなたを見世物として消費しないという独りよがりな思いを、頼まれてもいないのに折に触れて表明していたと記憶している。
友人Bとは2年生の時から何度か同じクラスになっていたが、そこまで親しいわけではなかった。何かにつけて「○○した方がいい」「○○しないといけない」と言う彼女が密かに苦手ではあったけれど、実際に反発したくなるほど嫌なポイントを突いてくることはなかったし、彼女はいつでも善良で悪気はなかった。6年生になるとBと私は何度目かの同じクラスになった。ちょうどその頃、彼女は同じマンションの同じ階に引っ越してきた。学区内とはいえ、初めての引っ越しに彼女は戸惑っていたのかもしれない。私と一緒に登校しようとし、帰りも時間が合えば(同じクラスなんだから委員会やクラブ活動さえなければ確実に時間は合ったし、それらの予定もきちんと把握されていた)一緒に帰ろうとした。

休み時間はAとBと3人で過ごすことが多かった。
Bは自分の趣味の話をしなかったし、Aと私には共通の趣味がなく、お互いに相手の好きなものの話を聞くという回路を持っていなかったので、3人でいる時はほとんど外で遊んでいた。校庭にある遊具の上で鬼ごっこをしたり、ひとりはチェーンを絡ませて座面を高くして立ち漕ぎをして、他のふたりは高学年になってそれなりに大きくなった身体を詰め込んで2人乗りをしてブランコで遊んだりした。その時、確かに私は楽しかったし、他のふたりも、きっと笑っていたと思う。

3か月もすると、私はふたりに苛立ちを覚えるようになった。
ふたりはクラスのドッジボール大会を一緒にサボってはくれなかった。それどころか、サボってどこにいたのか、何をしていたのかと詮索し、Bは「次からは参加するように」と言い含めた。別に一緒にサボってほしかったわけではないが、放っておいてほしかった。「休み時間」にクラスみんなでドッジボールをすることは、私にとってはまったく「休み」にならない、ということを11歳の私はうまく説明できなかったし、基本的に学校という人の集まりが好きそうだったふたりには、私の行動はまったく理解できないものだっただろう。

そのうち、私が休み時間に何をしようとどこに行こうとついてくるふたりを、鬱陶しく思うようになった。それまで無理してふたりと遊んでいたわけではなかったが、誰と友達であっても、ひとりで音楽室でピアノを弾いたり、図書室で好きな本を探したりする時間が私は好きだった。彼女たちは音楽をやらなかったし、本も宿題以外に読まなかった。それらに興味もなかった。だから、音楽室や図書室でも教室にいるのと同じ調子で、クラスの誰それがどうしたみたいな話をしていた。好きな時間を邪魔された私は、「それやめて」と言ったが、ふたりは「何が?」という反応だった。ふたりからしたら、教室にいる時と同じことをしているのに、なぜ私が怒っているのか、まったく分からなかっただろう。

とうとう私は「鬱陶しいんだよ、どっか行け」と言うようになった。それでもふたりは休み時間のたびについてきたから、何度も繰り返しふたりに暴言を吐いた。それなのにふたりは「どうしたの?」と聞いてくる善良なひとたちで、その善良さに私はまた苛立った。次第にふたりとは距離ができるようになり、秋になる頃には3人で鬼ごっこはしなくなったけれど、善良なふたりは私の暴言を先生にも言いつけなかったらしく、教室ではこれまでどおり話していたから、大人の目にはわたしたちは卒業まで「仲良し3人組」に見えていたようだ。先生が勝手に決める修学旅行の班は3人一緒だったし、運動会の組体操でBと私はペアだった。

私は冬にいくつかの中学校を受験し、そのなかで合格したところに通うことにした。ふたりには受験したことも言わなかったし、進路を決めてからも、個人的には伝えなかった。ふたりとは、卒業以来一度も会っていない。中2になる時に私は東京に引っ越して、物理的にも距離ができた。その後、Aがどこの高校へ進んだかはSNSで知ったが、Bがどうしているのかはまったく知らない。

こうして振り返るまでもなく、私はひどい。
ふたりには悪いことをしたと思っている。だけど、何度戻っても同じことをしてしまうとも思う。実際、これがいちばん幼く分かりやすいだけで、同じようなことを中学校でも高校でもしてきた。

私は人というものが得意ではない。

労働のもやもや

このブログで最初の記事が「労働のもやもや」って、なんだかなと自分でも思う。
なぜ、職場にいない時間まで、職場のあれこれを考えないといけないのか、とも。

 だけど、わたしは賃金労働者で、1日のほとんどの時間を労働現場で過ごさざるを得ない生活をしているから、そこでのもやもやはわたしのなかで結構な割合を占める。たとえ、それが不本意であっても。だから、休みが明けてその現場に引き戻される前に、「もやもや」を少し、言葉にしておきたい。

 わたしは2019年の4月に就職した。
はじめての仕事は、パンフレットの作成だった。デザインを委託した業者から送られてきたデザイン案を見て、「女性の視点だとポップになちゃうのかな」と上司は言った。デザインをお願いした会社の担当者もわたしも(自認はともかく社会的には)女性として仕事していて、つまり上司は「わたしたち女性が作ったからパンフレットのデザインがポップになり過ぎている」と言っているのだった。わたしは、心のなかで「女性の視点ってなんだよ」と思いつつ、大きすぎる主語をやんわり否定して「一般的な女性の視点は分かりませんが、個人的には用途を考慮するとポップかもしれませんね」と返した。

 上司は普段、とても「いい人」だ。
仕事のさっぱり分からない新人のわたしに、非常に根気強く仕事を教えてくれる。怒鳴らないし、精神論を持ち出さない。

 これは、上司に限ったことではない。
先輩は、パートナーのことを「うちの嫁」と呼ぶし、「嫁がすぐ泣くから地獄」ということをよくネタにする。でも、先輩は「いい人」だ。だって、どんなに忙しくても周りにイライラをぶつけないし、丁寧に仕事を教えてくれる。

また別の先輩は、わたしがいくら興味がないと言っても「昔は職場にAVがあった」話を延々と続けた。でも、先輩も「いい人」だ。だって、配属になってからずっと部署に関する基本的なことを教えてもらっている。

 友達と話すと、もっとひどい労働現場の話を聞く。それに比べると、恵まれた環境で働いてると思う。上司や先輩は、少なくとも明確な攻撃の意図を持ってわたしを攻撃しない。それどころか、困っていると必ず助けてくれる。だから困る。いつも怒鳴っていて、精神論を振りかざすような人たちなら「あの人はモンスターだ」と思える。でも、そうじゃない。基本的に「いい人」だ。その「いい人」の口からとび出る、(おそらく差別の意図はないが)差別的な言葉たちをわたしが勝手に心のなかに積もらせて、もやもやして、消耗しているだけだ。

 気にしなければいい、と言われるかもしれない。だけど、ここに書いたような上司や先輩の言葉を飲み込むことは、女性差別に加担することになるし、自分の学びや生き方そのものを自分で損なうことにもなる。それだけは、したくない、と思っている。

 

でも、わたしは仕事のできない新人だ。
上司や先輩の手をたくさん借りないと仕事を進められない。しかも上司や先輩とは、異動の関係上、短くても2年は一緒に仕事をするはずだ。「その言い方、差別的なのでやめてください」とは、とても言いにくい。角を立てずに伝える方法を、なぜわたしが考えないといけないのかという苛立ちもある。結局、角を立てずに伝えることは、わたしの生存戦略だ。賃金労働を続けつつ、精神の消耗を緩やかにするための。

 わたしがパンフレットの時に上司に言った「一般的な女性の視点は分かりませんが、個人的には」という言葉の意味は通じていない。差別的な言葉を聞くたびに、話題を変えたり、やんわり否定したりしているけど、無駄かもしれないといつも思う。それでも、わたしは言い換えたり、話を変えたりし続けたい。人を踏む言葉たちを、そのまま飲み込みたくはないから。